前回、新印象主義まで行ってしまいましたが、時を少し戻して。
過去のブログ印象派②のときも書きましたが、印象派メンバーが主催した「印象派展」は第1回から第8回まで行われており第1回印象派展の出品参加者はなんと30人もいました。
これは主催メンバーの他に作品を展示だけした出品者メンバーもおり、その中にはポール・ゴーギャンやオディロン・ルドンなどとても印象派ではない人もたまに参加していました。
展覧会を主催した主なメンバーは
ギュスターヴ・カイユボット
メアリー・カサット
などです。
これだけ人がいれば人間関係もいろいろ。派閥なんかもできたりしていました。
クロード・モネ、アルフレッド・シスレー、オーギュスト・ルノワールは仲良し3人組。
画風も筆触分割を使ったりして似ています。
この3人と仲が悪かったのはエドガー・ドガ。
メアリー・カサットはドガを非常に尊敬していたのでドガグループ。
この2グループの仲裁をしてたのはカミーユ・ピサロとベルト・モリゾ。
ギュスターヴ・カイユボットは後から参加してモネ・ルノワールを尊敬して印象派を支援しました。
一人独自の世界に行った変わり者がポール・セザンヌ。
そもそも印象派展がなぜ始まったかというと、
この人たちは当時の美術アカデミーに反発していました。
美術アカデミーの教え方、評価の仕方がお堅すぎて古臭くて反発していた人たちです。
アカデミー派の当時の先生としてアドルフ・ブグローやアレクサンドル・カバネルなどがいます。
この人たちの作品は
こういうのが当時「良い絵画」として認められていました。
そのためアカデミー派は筆触分割を使ったモネやルノワールの作品を酷評したのです。
ドガはアカデミー派からも評価されていましたが、国が主催する展覧会(サロン)のやり方が気に入らなくて反発していました。
印象派メンバーはアカデミーに認められない人、自ら反発した人、その人たちを尊敬してついてきた人などの集まりだったのです。
ここからは印象派メンバーがどんな特徴の絵を描いていたのかをひとりひとり見ていこうと思います。
モネは時間による光の移り変わり、空気感など主に風景画を描いています。
同じ場所の朝の光、昼の光、夜の光、季節ごとの風景などの連作をたくさん描いています。
連作シリーズとしては、ルーアン大聖堂、積みわら、ウォータールー橋、睡蓮などなど
1連作で30枚近く描いてます。睡蓮に至っては250も!
筆触分割を使って主に人物を描きました。ただ人の肌に影などを描くと紫斑が出てるとか、この斑点はなに?と言われてなかなか苦戦していたため、後期は筆触分割を背景などに使ったりして使い分けをしていました。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』では筆触分割を使ってますが、『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』は背景のみ、『大水浴図』では使ってません。
後年になってマティスがピサロに「一番印象派らしい人は誰ですか?」と聞いたら「アルフレッド・シスレー」と答えたそうです。でもシスレーは実は印象派の中で一番印象の薄い。。シスレーといえばあの絵!みたいな代表作がなんとも無く。。。
とても良い風景画を描いてますが、他のメンバーの陰に隠れてしまっている感が否めないです。
おそらくシスレーはその時々の風景から感じる印象を綺麗に捉えて、評価されず不遇の人生だったけど、それを生涯貫いた人だったからピサロがそう言ったのかも??
上3人は仲良しでした。
実はもう1人フレデリック・バジールという人も含めて仲良し4人組でした。この人はお金持ちのお坊ちゃん画家で、印象派展を開催する前の非常に貧しかった3人に共同アトリエを提供したり一緒に肖像画を描きっこしたりして、「いつか俺たちの展覧会を開こう!」と夢見ていました。でも1870年に起こった普仏戦争で戦死してしまいました。
バジールの作品は全然印象派っぽくないアカデミックな絵ですがいい作品を残してます。
一番上に掲載した作品がバジールの作品です。
まだ印象派展を開く前に、バジールが借りたアトリエにモネやルノワールが一緒になって使い、絵について話し合ってます。中央の背の高いのがバジール、左の2人がモネ?ルノワール?とも言われています。展覧会に出品予定の絵が背景に飾られてます。
一番の年長でみんなの仲裁役
本人は筆触分割で風景画を多く描いてますが、後半になってスーラ達「新印象主義」の点描がすごい!とこれからはこれだ!とピサロも点描を始めます。(でも点打つのやっぱり大変で途中で諦めました。。)↓の作品などは夜の街の光の表現が素敵です。
ピサロは自然の光よりも街の光を描いている作品が多いです
『リンゴの収穫、エラニー』はスーラたちの点描に影響を受けて自分を点描を始めたころ。