hiro_ame’s blog

美術マニアで科学と宗教を学ぶのが大好きな絵描き。

印象派とは ②筆触分割 モネとルノワール

最初から余談ですが、「印象派」の定義はなかなか難しいんじゃないかと個人的には思います。

 

定義1.印象派の展覧会を開催したメインメンバー

個人的にはこれが一番近い定義かなと思います。

印象派展は第1回~第8回まで開催しましたが、実は第一回の出品者だけでもなんと30名もいました。ウジェーヌ・ブーダンゴーギャンオディロン・ルドンなどとても印象派っぽくない人も実はいっぱい参加していました。

そのためメインで主催した、モネやピサロドガなどがそれにあたります。でも後半の何回かはドガともめてルノワールやモネ、シスレーは参加していません。

 

定義2.筆触分割

印象派っぽい作品というと「筆触分割」という技法を試したモネ、ルノワールピサロシスレーなどがそうですが、印象派展に非常に尽力したカイユボットは全然筆触分割を使ってません。

 

しかも、第8回印象派展になってくると、スーラやシニャックなど「新印象主義」などと言われる人たちも出てきて、もう何が何やら。

 

ということで前回、印象派展の始まりについて書いたので、今回は印象派っぽい技法「筆触分割」について。

 

前回の話はこちら

 

hiro-ame.hatenablog.com

 

モネやルノワールの作品を見ると「ザ・印象派」という作品

例えば、ルノワールの『習作(陽光の中の裸婦)』やモネの『積みわら』など

オーギュスト・ルノワール『習作(陽光の中の裸婦)』from wikimediacommons

クロード・モネ『積みわら、日没』 from wikimediacommons



例えば、木や葉っぱを描く時に緑色を使います。その時に青と黄色を混ぜて緑にするより、青と黄色を隣り合わせで色をのせる。それを遠くから見ると、目が錯覚を起こして緑に見える。

だから、色を混ぜて使うより、赤、青、黄色などチューブから出る色をそのままキャンバスにのせることで緑っぽく見せる。

 

なんでこんなまどろっこしいことをするかというと、実は、リアルな絵を描くと分かりますが、葉っぱを描くのに緑だけ塗ってても、全然リアルな葉っぱっぽく見えないんです。一緒に黄色や青(他の色も)をうまくのせると、葉っぱに写る光の反射や影などが出てきて葉っぱっぽく見えるようになってきます。

人間の影は黒だけじゃなく、青も赤も紫も黄色も入ってる(ここまでくると心の目で見ることにもなってきますが)それをキャンバスにチューブの色そのまま乗せる。

 

それまでは、綺麗な滑らかな肌を描くために光や影を色のグラデーションで描いていました。

そうやってグラデーションで描くのではなくその区画区画で色を変えて塗っていく。

これが「筆触分割」という技法です。

黄色、青を隣同士の区画で塗って緑に見せる。今のPCで見る画像のビットマップや出力プリンターと同じ手法です。

 

ルノワールの『習作(陽光の中の裸婦)』はまさにそんな絵

ルノワールの肌の色も影もいろんな色が混ざってます。そうすると、木漏れ日の下にいる女性っぽく見えませんか?

前回のブログで霜の「感じ」や海景の「雰囲気」がでているというのはこういうことなんです。「っぽく見える」

こうすることによって、朝の木漏れ日の光の感じ、昼の光の感じ、夜の光の感じなど、「光の移り変わり」が描けるようになるのです。

だから印象派の画家たちはアトリエで描くのではなく、外に出て、外の光を見ながら描いたのです。

モネとルノワールはこの筆触分割を2人で研究していきます。

 

ちなみに、外で絵が描けるようになったのはこの頃です。チューブ入り絵具が発明から。それまではアトリエで絵具を自分で作ってたので、外に持ち出せなかったんです。

そのあたりについては↓で書いてます。

 

hiro-ame.hatenablog.com

 

ところが、ルノワールの『習作(陽光の中の裸婦)』を出品したら、「肌に紫斑が出ている。死んでるのか?」と批判されました。

。。。。まあ、確かにそうも見えますかね。。

 

女性の肌といったら、カバネルのこんな絵が「正解」だと思ってる人たちからしたら、そうなりますね。

アレキサンンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生

 

でもこれを見てもわかるように、カバネルのヴィーナスはとても綺麗だけど理想的過ぎて、ちょっとリアル感がない(悪いわけではないんですが)。

健康的な太陽の光を感じる女性といったらルノワールのほうがよくないですか?

 

でも、当時のフランスでは全然受け入れてもらえませんでした。絵はなかなか売れず生活は貧しいばかり。結局ルノワールは筆触分割を諦めます。

悲しいことに、筆触分割をやめた肖像画を描いたら売れ始めました。

 

それに対してモネは筆触分割を貫きました。そして、根気強く描き続け受け入れられてきたのです。

晩年に超大量に描いた『睡蓮』シリーズなんて、まさに筆触分割の極地です。

モネの作品をリアルにみるとわかりますが、近くに寄ってみると、色を雑にベタベタ塗っているだけで何が描かれてるか全っ然わかりません。

これが面白いことに、後ろに下がって離れて行けば行くほど、非常に綺麗な睡蓮の情景が見えてきます。人間の目と脳の錯覚がなせる業ですが、モネの眼はいったいどうなってるんだ!?と言いたい。とにかく美しい睡蓮です。

クロード・モネ『睡蓮』 from wikimediacommons

 

ルノワールも続けていれば受け入れられるようになったかもしれませんが、そもそも筆触分割が合わなかったのかもしれません。

モネとルノワールの作品たちをみるとわかりますが、モネは風景が描きたい人、ルノワールは人物を描きたい人なんです。

筆触分割は風景のほうが合ってるのかもしれません。

モネとルノワールが同じ風景を描いた初期の頃の作品があります。

(左)モネ『ラ・グルヌイエール』(右)ルノワール『ラ・グルヌイエール』 
from wikimediacommons



これを見ると明らかに、2人が一番力を入れて描いてるのは、モネは水に映りこむ光の加減、ルノワールは人物。モネの人物は明らかに風景の一部です。これを見比べるとやっぱりモネのほうが水の感じが雰囲気出てて綺麗に見えます。

もしかしたらルノワールは気づいちゃったのかもしれませんね。「あ、筆触分割は人物に向かないかも。。。」特に人物の肌には向かないのかもしれません。

人物には使わずに、背景や他の物にだけ使うハイブリッドにすると受け入れられました。印象派に影響を受けた後の画家もハイブリッド方式を使っている人も結構います。

 

この筆触分割は次世代で更に発展していきます。

長くなってきたので続きは次回